地下鉄駅員さんに昼はない
わたしが住んでいる部屋には窓がありません。
あることにはあるのですが、わたしの方についてないのです。どういうことかと説明いたしますと、利用しているシェアハウスは、ひと部屋をいくつかのパーテーションで区切った空間でおのおのが暮らしている状態でございまして、ちょうどじぶんの空間には窓がないのです。また、他の空間についている窓も磨りガラスが張られたもので、さらに、いざ開けてみましても野良猫が一匹通るかどうかの距離に隣接するビルの壁しか見えず光はこれっぽっちも入ってきません。
窓がないところで暮らしていると窓のありがたみを感じます。単純に採光とか風通しの問題だけじゃありません。独特の閉塞感を感じるのです。先の見えないトンネルを走ってるようです。光も音も静かなので夜は快適に過ごせるのですが、日中はどうも落ち着かない。
戸があるじゃないかというは話ですが、しょせん、戸は内部(建物)と内部(建物)の境界でありまして、外部に繋がる場所ではありません。反面、窓は外部と内部を通すものです。窓は玄関ではないのでそこから外に出たり、中に入ったりするものではありませんが、あるとないのでは相当な違いを覚えます。窓があると中にいながらも適度に外を感じることができます。物理的な空間を超えた広がりを感じます。
面白いのが窮屈さを感じるのであれば壁なんか取っ払ってしまえばいいかというとそういうわけにはいかないところです。今度は開放感がありすぎて落ち着きません。 実際、壁をなくすのは部屋として機能しなくなるので大げさですが、窓にしてもちょうどいい大きさや数というのがある気がします。スケルトンハウスが奇異にみえるのはそういうところだと思います。
建物だけではなく、人間にも窓があると思います。それぞれがそれぞれにちょうどいい窓を設定している。オープンな人、秘密主義な人。
そのちょうどいいは内部からの視点によるものが多いですが、スケルトンハウスのように窓を考えるには外からの視点も必要です。他人が見たときにちょうどいい窓とはどんなものでしょうか。
お店じゃないですが入り口(窓)が大きい人ほど入っていきやすい、喋りやすい感覚はあります。でも、高級店だとか一見入りにくそう雰囲気のお店はお店で面白みがあります。本質は窓ではなく窓の内にあるものですが、外からの印象はやっぱり大切。
良くもわるくも、今のわたしの窓はスケルトンハウスのそれのようで、さらに割れていて、つつぬけになりつつあります。ルームシェアをしませんかという誘いを頂いたので、明日はその方とお会いしたりお部屋を内見したりしてきます。